教室の窓際、一番後ろ。春の陽射しに柔らかく包み込まれ、なおかつ教壇に立つ者の注意をかわすことができる、誰もが憧れる典型的な「絶好の座席」。その席に座り、授業の終わりを告げるチャイムと礼を促す号令にも全くかないままに、机上に組んだ腕に顔を埋めてこんこんと眠り続ける女生徒が一人。
「…ちょっと紗絵、一時間目終わっちゃったよ?」
呆れた調子の友人が呼びかけ、同時に身体を揺さぶられることで、篠宮紗絵の居眠りはようやく終了を迎えた。眉間に皺を寄せ目元を力いっぱい擦り、重たい瞼を押し上げる。
「うあー、優子、オハヨ…」
「オハヨ、じゃないわよ。もー、何爆睡ぶっこいてんのよ」
休み時間の喧騒にもかまわずにマイペースな返事をよこす紗絵に、彼女の十年来の親友である八木優子は苦笑するしかない。
紗絵はやっと頭を持ち上げ、あー、と間の抜けた声と共に首を回す。ぽきぽきという小気味の良い音が、思ったよりも大きい。
「もうー、おっさんくさい。でも紗絵が居眠りすんのって珍しいよね?」
「ん、今日私英語あたるじゃない? それすっかり忘れててさ。思い出したのが、さあ寝るかって布団めくったトコで。それからあわててレッスン5だっけ? の訳始めて、結局朝までかかっちゃって、寝てないのよう」
欠伸を噛み殺すことはしないけど、それでも最低限のマナーは守ろうと紗絵が大きく開こうとしている口元を手で覆い隠そうとした時。
「それは駄目だよ!」
それなりの音量で言い放たれた言葉は、男にしては少し高めの澄んだ声のせいで余計きっぱりとした調子が強調される。
紗絵は突然のことにびっくりし、ぱちぱちと忙しそうに瞬きを繰り返しながらも、自分の前の座席で、椅子の背もたれに肘を引っ掛け、座ったまま顔だけをこちらへ向けている、声の主を見た。
「駄目だよ、夜ってものは眠るためにあるんだよ? 人間の本能として、眠りを欠いちゃ駄目だよ」
微笑すら浮かべて改めて説き始める男子生徒の、そこそこに整った顔立ちを見つめながら、紗絵は彼の名前はなんて言うんだっけ、とぼんやり思った。高校に入学して一ヶ月、席替えは三日前にしたばかり。今の今まで、紗絵はこの特等席一歩手前の席を所有する少年とは話もしたことが無かったのだ。紗絵の横に立つ優子までもが、突如として親しげに話し掛けてくる少年の様子とその話の内容にきょとんとしている。
優子よりも、紗絵がその場に順応するのが早かった。これから一年同じ教室で学ぶクラスメートを、むげに扱うわけにもいかない。
「なんか、えらい寝ることにこだわるんだねえ」
「ああ、だって俺、寝ることが趣味だもん」
そう言って少年は、幼さの抜けきらぬ全開の笑顔を見せてくれた。
それが、堂島大地との、始めての会話だった。
「うー。あちいー!!」
言葉とは裏腹に、上気した顔に満面の笑みを浮かべて、大地は家から持参したとおぼしきスポーツドリンクを勢いよく咽に流し込んだ。
体育が終わったばかりの教室は、心なしか普段の休み時間よりも一層ざわついているような気がする。更衣室から戻って来た紗絵は目にしたその光景につい微笑む。
「お疲れ様」
声を掛け自分の席につく。七月の席替えで紗絵に割り当てられたそこは、偶然にも大地の隣だった。
「おう、疲れたよー」
「男子は外でサッカーだったもんね」
「そうだよ、この炎天下の中走りまわされてさー、もう汗べっとり!」
そうしてペットボトルを離して口元を拭うと、大地は紗絵の、まだ前髪を伝って滴がちるほど湿っている髪の毛に目をやり、うらめしげな表情をつくる。
「何よ、その顔」
「いいよな、女子は水泳でさ。ったく、なんでウチの高校のプールあんなに狭いんだよ」
「…そんなこと言って、かなりサッカー本気でやってたくせに。楽しそうだったじゃなーい?」
プールを囲うフェンス越しに見たグラウンド、そこで歓声を上げながらボールを追い駆け回している大地の姿を紗絵は確認している。そのことをずばり指摘してやると、大地は誤魔化すように笑顔を浮かべた。
「なんだよ、何見てんだよ」
「そんなんじゃないわよ、あんまり大地が大声で叫んでちょこまか動き回ってるから、つい視界に入っちゃったんじゃない」
肩にかけたタオルで、まだ乾かない髪の毛を撫でつつ反論する。
「あーでも、今日はいっぱい運動して疲れたから、ぐっすり眠れるなあー」
伸びをしながら何気なく、けれど心底嬉しそうにそんな言葉を口にする大地に、紗絵はまたか、と言わんばかりに眉を寄せてやる。
「ほんっっとに大地って、寝るの好きだよねー…」
「いつも言ってるだろ? 寝ることは俺の趣味。眠ることが生きがい!ってね」
そうなのだ。
大地は、眠ることが今一番楽しいことだ、と豪語する。そのわりには授業中に居眠りすることはない。昼間はしっかり活動して体と頭を程よく疲れさせ、夜十時には就寝、翌朝六時には起床するという。それもこれも、快適な睡眠をとるためだ。
大地と初めて言葉を交わし、大地が熱く語る「睡眠観」を聞かされたあの日から、早いものですでに二ヶ月が過ぎていた。柔らかく心地よかった陽射しをくれていた太陽が、今は全てを焦げつくさんばかりの熱を放射している。
その間に、大地のこの性質はクラス中に知れ渡っていた。そのせいで少々変人扱いされているけれど、大地の持ち前の明るさと元気の良さがあって、それは冗談で済んでしまう程度の悪意の無いものだ。それでも、彼の熱弁を大人しく、むしろ関心しながら受け止めたせいかすっかり大地に気に入られたのか、今ではクラスで一番仲が良いと思われる大地の女友達である紗絵としては、その眠りへの執着はいささか度を過ぎていて、時々心配になる。
「ねえ、寝ること以外に楽しいことってないの?」
「んー、やっぱり今は寝てる時が一番楽しいかな。 色々身体動かしたり、面白いテレビとかゲームとか本とかも魅力的だけど、それも結局いい夢見れるかなーってことに繋げて考えちゃうし」
この、徹底した睡眠至上主義はどうだろう、と紗絵は小さく溜め息をつく。大地なりに昼も夜も充実しているのだから、紗絵が口をはさむことではないのだろうけど。
「ね、逆転の発想って大事だと思わない?」
「な、なによいきなり…」
唐突な問いかけと共に大地の輝いた瞳が向けられて、紗絵はわずかにたじろぐ。
「だから、何で俺が寝ることにこだわるかってことに関わってくるんだけどさ。みんなどっちかっていうと昼間の時間をどう有効に使うかを考えながら生きてるだろ? よく言うじゃん、寝る間を惜しんで、とか」
また、とにかく自分の主義主張を熱く語り始めるという、大地の悪い癖が始まった。でも、紗絵にとって大地の考え方や感性は新鮮で、正直聞いていて飽きないから、素直にうんうんと相槌を打つ。
「でもそれは間違ってるかもしれない。昼を楽しむために夜が用意されてるんじゃなくて、夜の睡眠を楽しむために昼という時間が用意されてるのかもしれない。…ホントは人間は、眠るために生きてるのかもしれない」
「…そっか、そういう考え方もありだね」
感心している自分の心を素直に伝えると、大地ははにかむように笑った。
「まあ、それは大袈裟かもしんないけどさ、一人くらいそんな風に考えてみる奴がいてもいいんじゃないかなって、思うわけだ」
「ふうん、…大地はそうやって考えてみたことあるんだ」
「ああ、しょっちゅう考えるよ。だってさ…」
大地の視線がペットボトルを弄くる自分の手元から外れて、紗絵の方を向く。その顔はにこやかだけれど、瞳にはどこか真剣な色が漂っていることに紗絵は気づいてしまった。
「眠りっていう時間に、大切な意味を持たせてやりたいじゃん」
多分それは意味深な言葉。だけど紗絵は深く考えても、大地に追求してもいけないような気がして、そうだねとこれまたにこやかな笑顔を返して、会話を終わらせてしまう。
やがて大地が次の授業の準備をするべく鞄の中身を漁り始めたのを見て取って、紗絵も急いで手鏡を覗き込み、おざなりに濡れたショートカットを整えると、大地にならって鞄から数学の教科書を取り出す。
そうしながらも大地の話と、彼の眠りに対する思い入れは、やはりどこか気になると心に引っ掛けておくことを忘れなかった。
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